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連載エッセイ [13]
暮らしの中のバイオクリマ
吉野正敏

 
世紀の大飢饉
 
大飢饉は起こるか

 アフリカでは食料不足が慢性的に起きているが、気候の変化で水不足が深刻になり、さらにその年の天候不順が重なって農作物が育たず、食料が絶対的に不足し、今日でも餓死者が出ている。国連が食料の支援を呼び掛けているが、効果は一時的あるいは局地的で、根本的な飢餓状態からの脱却あるいは、飢饉の回避からは、ほど遠い状態と言わざるを得ない。
 一方、日本などでは、現代は『飽食の時代』などと言われ、食べ過ぎを防ぐキャンぺーンさえ盛んである。最近の日本では、食料不足で餓死者が出るなど、現在の食料事情・社会体制では考えられない。しかし、最大級の自然災害が複合して発生したらどうなるか、大飢饉の状態が起きはしないか、あまり考えられていないのではなかろうか。それは“想定外です”ではすまされないであろう。少なくも、過去、どのようなことがあったのか、知っている必要があるのではなかろうか。

養和(ようわ)の大飢饉

  養和元年(1181年)、日本全国、ひどい飢饉に見舞われた。春と夏には日照りが続き、秋には台風が来て強風・豪雨・洪水に襲われた。その翌年、1182年にはさらに状況は悪化し、飢饉の上に疫病が流行した。平安京(京都)に住んでいた人びとは食料が無く、餓死者が多数出た。
 そのころ、京都はすでに都市化が進行し始め、人口の集中が起こっていた。しかし、食料供給システムや衛生管理システムは追いつかず、特に飢饉の年にはひどい状況が展開していた。例えば、985年に源信が書いた仏書『往生要集』には、飢えに苦しんで死んでゆく人のさまが書かれている。

。。。。。川の水が干上がって、ひくひくともがき苦しむ魚とそっくりだ。。。。。

とその情景を書いてある。鴨長明が建暦2年(1212年)に書いた(脱稿した)『方丈記』にはこの1182年の平安京のさまがありありと描写されている。少し長くなるが、引用しておきたい。

。。。。。世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとヘにかなへり。はてには、笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり。。。。。

 最近、『自由訳,方丈記』が刊行された(新井 満、2012年、デコ)。それによると、平安京では安元3年(1177年)の4月に大火事があり、その3年後の4月に大竜巻があり、同年6月に突然、平安京から福原に遷都が行われた。しかし、半年も経たないうちに失敗し、都は再び平安京に戻った。養和の大飢饉は、その翌年の養和元年(1181年)と、その翌年(1182年)、2年連続して起こった。

死者統計

  養和の大飢饉の頃、仁和寺(にんなじ)の隆暁(りゅうぎょう)法印(法印)という高僧が、死者を憐れみ死体をみつけては、額に“阿”の字を書き記した。“阿”の文字は梵語の中でもっとも重要な文字で、この文字を書き記し成仏を祈った。
 1182年4月・5月、“阿”の文字を記された死者の頭の数は42,300あまりであった。これは、平安京の一条より南、九条より北、京極より西、朱雀大路の東の区域の道路のほとりについての結果である。もちろん、その前後の期間にも死者は出ているし、河原・白河・西の京などの周辺地域を加えれば非常な数になったと推定される。さらに日本全土、七道諸国の死者の統計数ははかり知れない。しかし、首都の1部のたとえ狭い地域の統計とはいえ、確実な方法による計測結果として、この日本最古の死者数統計は重要である。
 42,300という値は非常に大きい。平安京の上記の地域の人口が不明だから何%にあたるのか計算できないし、また、周辺地域から物乞いあるいは難民状態で流入していた人数が どのくらいだかわからないので、にわかには、説明不可能である。しかし、今日ですら、一つの都市で4万を超える死者を出す災害はあまり発生しない。

12世紀後半の世界の気候

 12世紀のその頃の気候は世界的に見てどうであったか。欧米では温暖期と考えられている。(図1)は過去1,000年の北半球の気温を復元した図である。
(図1)過去1,000年(AD 1,000-1998)における北半球の気温変動。横軸は年(AD)、縦軸は気温偏差℃。
(Mann, et al., 1999, Geophysical Research Letters, 26, 759-762)
 この図を見ると、12世紀の後半をピークとして小さい波を描きながら次第に低下し1800年から1900年への世紀を最低とする“小氷期”に至る。その後、いわゆる地球温暖化の時代で気温は急上昇している。1460年頃にはこの1,000年間では最低のピークが出たが、今回は12世紀後半について注目してみたい。
 上記の養和の大飢饉が起こった1181年、1182年は、20世紀末以降の温暖化した時代を除く過去1,000年の期間中、北半球で最も気温が高かった12世紀後半の時代である。この時代はナイル河の水位は低く、温暖で乾燥した事実が知られている。そしてこの時代はエル・ニーニョかエル・ニーニョに似た状況が卓越したと考えられている。
 以上は『エル・ニーニョの歴史』(C.N.Caviedes 2001: El Nino in History, Storming through the Ages. University Press of Florida, 280 pages)というエル・ニーニョに関連した世界の気候変動を展望した書物を参照した結果である。養和の大飢饉も世界の気候変動と傾向をともにした現象の一つであったと言えよう。さらに東アジアなど地域的な気候変動との関連も詳しく検討することが必要であろう。


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